この文章は、土地選びから竣工まで、建築当時のお施主様のさまざまな率直な想いを書き留めて下さっていた「建築日記」です。今回は、「800年の時を経て」の奥さまの文章(2011年6月〜2012年4月)をご紹介します。
目次
- 01|第1話「地鎮祭の日に風を感じて」
- 02|第2話「千の風になってオパが来た!」
- 03|第3話「オパのノートから」
- 04|第4話「オパの家」
- 05|第5話「我が家の守り神達」
- 06|第6話「お宝がでたぞ〜」
- 07|第7話「発掘調査」
- 08|第8話「新工法」
- 09|第9話「Oh my God!」
- 10|第10話「南アフリカ」
- 11|第11話「ブルースホーム」
- 12|第12話「グッディーな女性達」
- 13|第13話「感謝を込めて引っ越します」
- 14|第14話「エピローグ」
01|第1話「地鎮祭の日に風を感じて」
はじめに
神は乗り越えられない試練はお与えにならない
今人気のテレビドラマで主人公の仁が窮地に陥った時いつも言う言葉です。今回の家作りで私たちも何度かこの台詞を漏らしました。
そして、試練を乗り越えてようやく6月9日に着工できる事になりました。
ここに至りましたのもグッディーホームの皆様は言うまでもなく私達を心配して下さり、アドバイスをいただいた沢山の方々のお陰だと思っています。皆様への感謝の気持ちと家作りという私達にとりましては大きなプロジェクトの記録を形に残すためこのブログを書かせていただきます。
地鎮祭の日に 千の風になって
2010年12月12日、大安の日曜日
目覚めると朝日が輝き、ベランダからは富士山がくっきりと見えました。
11時から始まる地鎮祭にはもってこいのお天気です。
知らず知らずのうちに笑みがわいてきます。
私たち夫婦と次男は時間に余裕を見てかなり早めに仮住まいしている川越のマンションを車で出発しました。
「やっとこの日を迎えられる やっとここまでこぎつけた」
大変だったいろいろな事が蘇ります。
長年住み慣れた我が家とのお別れに少しセンチメンタルになりながらも、慌ただしく仮住まいに引越しました。20日ぶりに訪れる鎌倉の懐かしい場所は、すっかり更地になっているはずです。三人三様の思いを胸に関越を爽快に走り環八に出たところで、突然渋滞が始まり全然動かなくなりました。
事故かしら?いったい何があったのかしら?
普段から混む場所なので覚悟はしていました。
しかし、想定外のひどい渋滞に理由が分からないままに時間はどんどん過ぎていきます。それでもノロノロ動き始めようやく訳が分かりました。今流行の市民マラソン大会が催されていたのです。
これではせっかくの地鎮祭に間に合うことができるのでしょうか?
菊江さんに連絡をとると「神主さんは午後からも仕事が入っていて、少しでも遅れるとそれが終わった後になります」との事。
始めから遅れるのは気分が悪いと、漸く渋滞を抜け出し何時もは安全運転の主人がフルスピードで高速を飛ばしに飛ばし心配顔の社長さん、菊江さん、田中さん、神主さんにお会いすることができたのは、なんと11時の3分前でした。滑り込みセーフです。
「まるで計算して時間を計られたかのような登場をなさいました。」と、菊江さんらしいお褒めの言葉をいただいて地鎮祭は始まりました。
そして、このドタバタがこれから起きる事のプロローグだとは、その時はだれも気付かなかったのです。
更地になって随分雰囲気が変わり、なんだか広く感じます。
試行錯誤を重ねに重ね、清水設計さんとグッディーさんの皆さんと考え抜いた家、図面上で見慣れた家。その家がここに建っている姿を想像するとドキドキしてきます。
いよいよ地鎮祭が始まります。
儀式に則った神主さんの所作は、ありがたくとてもすがすがしい気持ちにさせてくれます。
そして祝詞が始まったその時、なんと上空に一陣の風がおこり私たちの上を一巡りして去っていきました。まるで漫画のような現象にその時大げさかもしれませんが、人知を超えた何かを感じました。
さて、この風の意味するものはいったいなんだったのでしょうか……
02|第2話「千の風になってオパが来た!」
地鎮祭で風を感じた時、
オパだ、オパが来た!
イベントが大好きなオパが両頬にエクボを浮かべた顔で上空から参加しているんだと思いました。
我が家から北の方角を見ると小高い山の中腹にS観音の社が見えます。
オパは自分と同じ名前のS観音にー愛火不滅ーと自分で書いた字を彫ってもらったお墓を建てました。そこに今オパは眠っています。
「地上が騒がしいぞ!うちの方角じゃあないか!何事かな?」と、風になって見に来たんだな…と思いました。
主人の父は、若い頃ドイツに住んでいました。それで私達はオパ(ドイツ語でお爺ちゃんという意味の幼児語)と彼をよんでいました。
オパは出会った人を幸せにするとびっきりの笑顔の持ち主でした。
一瞬でみんなオパの事が大好きになります。
私が初めてオパに会った時はもう本当のお爺さんでした。と言うのも主人はオパが50歳を過ぎてから持った子供だったからです。
戦後数年経ってオパはここに家を建てました。その母屋を私達が増築して二世帯住宅にしました。そんな新旧入り交じった家でした。
60年近く経った母屋は台風で屋根がやられ雨漏りが始まりました。床下をチェックしてもらったらシロアリも住み着いていました。昨年の春には、母屋の床下の隙間からハクビシンの仲の良いカップルが入ってきて、我が家がフォンテッドハウスの様になりました。この時追い出しをお願いしたのですがハクビシンバスターズなる職業がある事を初めて知りました。
私達が建てた部分は、母屋より新しいだけに致命的な傷みは無く、その後もトーヨーキッチンを入れてリフォームしたりと、手を加えていたので壊すには偲びない思いがありました。
それで、最初は母屋のリフォームをしようと数件の業者に相談し見積もってもらいました。その結果はビックリするほどの金額を提示され、無駄な部屋も沢山出来てしまいます。しかも、幾らお金をかけても基礎や気密性は今の新築の家に及びもつかない事を知りました。
主人が育った家 私達が結婚して二人の男の子を育てた思い出一杯の家(居間の入り口の柱には二人の成長の記録が刻まれていました)
その家ももう悲鳴をあげています。
何とかしなくては……..
そして 私達はこれから先も此処から離れたくなくて、建替えを決心したのです。
オパのノート
引っ越しの為の荷物の大整理が始まりました。母屋で働いているとオパの思い出の品がザックザック出てきます。興味深い物が沢山あり仕事がなかなかはかどりません。
その時、主人が一冊のノートを見つけました。
見覚えのあるノートでそこに晩年オパが何やら一生懸命書き込んでいたのを思い出しました。表紙には(私の一生)とタイトルが書かれています。主人と私は、引き込まれるように読み始めました。あの穏やかなオパの若かりし日々がよみがえります。
映画かドラマであれば、多分ここからオパの回想シーンが始まるはずです。
なんと言う人生でしょう!
なんと情熱的な人だったのでしょう!
私達は素晴らしい宝物を見つけたのでした。
家の事と平行して、少しずつオパの事も書いてゆきます。
それと、地鎮祭に風になってやってきたのはオパだけではなかった事も……….
03|第3話「オパのノートから」
建築日記からは、外れてしまいますが、我が家が無事に完成しますように、その後も皆幸せに暮らせますようにとの願いを込めて、S観音から見守っていてくれるであろうオパのことを書きます。
オパのノート
少し癖のある字で、書かれたノートには、20世紀の前半の戦争をはさんだ激動の時代を情熱を持って必死で生き抜いた半生が淡々と書き込まれていました。
ここでは、長くなりますので、あらすじ程度に書きます。
1900年に佐渡で産まれたオパは、東京で大学生活を送っていました。 当時は政府による思想の弾圧が激しくそんな日本に嫌気がさし、海外で勉強しようとイギリスに渡りました。長い長い船旅を経て着いたロンドンでの生活はそれこそ大変過酷なものでした。流石に向こう見ずで無鉄砲な渡航だったと身を持って思い知ったようです。親は渡航費用を出すのがやっとでした。
こんな事では、欧州まで来た意味がないと悶々とした日々を過ごしていた時にチャンスがきました。学費免除の留学生としてドイツで勉強出来る制度があり、その面接試験を薦められて受ける事になりました。そして、ヨーロッパに駐在している政府や経済界のお歴々の前で面接試験を受け、留学生としてドイツで勉強出来る事になりました。反発していた体制側に結局は組し抱かれる事になってしまいました。幾多の葛藤の末の決心だったと想像されます。
その時の様子を 「絶対に負けてはならないと試験官の目を見据えて臨んだ。」と書かれています。
はれてハンブルク大学に入学し、そこで勉強に明け暮れる毎日が始まりました。数年間の血の滲む様な努力の末、経済学の博士号(ドクトル)を獲得しました。教授会で博士号が決まった日は彼の生涯で最高の日でした。
日本人の青年がドクトルの称号を得たことは当時の新聞にも載り、その新聞もたいせつに保管されています。その後も、亡くなる迄その日をドクトル記念日と称して一年で何よりも大切な記念日にしていました。
ドイツではドクトルの称号を持っていると、日本では考えられないほど尊敬の念を持たれると言う事です。
かくして、佐渡出身の笑顔がチャーミングな青年は恋をも獲得するのです。
下宿をしていた家のお嬢さんのヨハナさんはノーブルな顔立ちの本当に美しい人でした。勉強の合間にちゃっかり恋もしていたのです。博士号獲得でヨハナさんの親も認め、めでたく結婚しました。それにしましても、当時のドイツで東洋の青年との結婚を許すとはオパの人柄もさる事ながらドクトルの威力はたいしたものでした。
この時、人生の全盛期を迎えます。
ハンブルクの高級住宅地の一画のアグネスシュトラッセに居を構えます。二人でお洒落なニッカボッカを履いてアルプスでスキーをしていたり、フロックコートにシルクハットで正装しベンツに乗り込む姿などの写真も出てきました。
しかし、第二次世界大戦の嵐が吹き荒れそれも長くは続きませんでした。
敗戦国となったドイツと日本です。
日本に引き揚げる事を決心した二人はヨハナさんの両親に別れを告げに行きますが、最後までとうとうその事を言い出せずにいたそうです。その夜、あたふたとつてを頼りにシベリア鉄道に乗り込みました。
そこを読むと、
「ヨハナさんは祖国を去り日本について行くなんて本当にオバを愛していたのだ」と涙が出てきます。
ドイツで得た全ての財産を投げ打って二人の逃避行が始まりました。危険な目にあいそうな事も一杯ありました。その下りになりますと、無事に帰国した事を知っているのに、ハラハラドキドキしてしまいます。
なんとか二人で無事日本に到着しました。
敗戦後の日本でヨハナさんの為に、職を探しました。そして、社宅として外国人の奥さんの為にと鎌倉の洋館を与えられ鎌倉での生活が始まりました。今は取り壊されて、女子校の分校になっています。
やっと日本での生活も軌道にのり始めた矢先に、慣れない異国での生活と疲れが出たのか、ヨハナさんは体調を壊してしまいました。最新の医療を受けさせようと慶応病院に入院させるもあっけなく亡くなってしまったのです。
ヨハナさんとの間には子供はなく、落胆し、憔悴したオパを見るにみかねて、知人が同郷の女性を紹介しました。20歳年下のその女性とは、故郷を同じくすると言う事で話しが合い再婚する事になりました。その女性が主人の母です。
そうして、鎌倉で家を建て第三の人生が始まるのです。
戦中戦後の混乱の時代を生き抜いてきた二人は、穏やかにお互いをいたわり合いながら生活していました。私など計り知れませんがヨハナさんのときとは違った静かな愛を築いていたのでしょう。
オパのノートと共に沢山の写真や蔵書 資料が出てきました。これはヨハナさん亡き後も親戚付き合いをしていた弟のヘルマンさんがドイツで保管していてくれたものです
今は仮住まいの為に出てきた写真は全て倉庫に入っています。掲載出来ないのが残念です。いずれ、主人が時間が出来た時にこれを元にオパの事を詳しく調べる事でしょう。
04|第4話「オパの家」
ドイツの家
こうして、鎌倉で生まれ育った主人は、すくすく育ち大学生になりました。ヨハナさんの弟のヘルマンさんとは、その後も親戚付き合いを続けていました。そのヘルマンさんのお宅に大学生になった主人が夏休みの2ヶ月間ホームステイをしていた時の話です。
第3話で書いたように、ドイツで全盛期を迎えた頃オパはハンブルクの高級住宅街でヨハナさんと新婚生活を送っていました。住所を頼りにその家を見に行ったそうです。何十年も過ぎているのに、外観は、オパが自慢げに話していたそのままの様子で驚いたそうです。しかし人手に渡っていて、全く知らない人が住んでいるのでベルを鳴らす勇気はなく、開け放されたパノラマウィンドウにかかったレースのカーテンが風に揺れるのを在りし日の二人に思いを馳せて、感慨深くいつ迄も見ていたそうです。
ハンブルクの家は何年もの時に耐え、今もずっしりと建っています。
上の写真は、2011年6月30日現在の家です。外壁の色は茶色から白に塗り変えられているとの事ですが、そのままの姿で現役で頑張っている事に、主人と二人で本当に驚き驚嘆しました。日本の家もこうあるべきですね。
その時、ヘルマンさんに連れられて親戚のドイツ人のお宅に挨拶に伺うと、どちらに伺ってもまず家の中をくまなく披露してくれるそうです。主人に対して親愛の情を表す意味もありますが、大げさに言うと、彼らにとって家を見せる事は自分の人生を知ってもらう事でもあるのです。自分を表現する為に綺麗に飾った部屋を皆誇らしげにハウスツアーしてくれるそうです。
社長さんや菊江さんに案内していただいて、オープンハウスに伺った時のオーナーの皆様のお顔にも自分の家を愛してる誇りをいつも感じます。
グッディーさんと創る家は、隅々迄自分の思いが入っています。
私もきっと、誇りを持って訪れる方々を案内するのだろうと今からその絵がうかんできます。
本当に楽しみです。
リーゼロッテさん
ヘルマンさんの奥さんのリーゼロッテさんはキッチンが汚れる事を、嫌い決して揚げ物はせずその他のお料理もいたってシンプルだったらしいです。でも、テーブルセッティングは完璧でノリのきいたテーブルクロスで毎回ビシッと決めていて、時には、エルベ川が良く見えるバルコニーにセッティングして行きかう船をみながら、ゆっくりと昼食を楽しんだそうです。
文化の違いでしょうか、私なら揚げ物は厭わないけどクロスの洗濯とアイロンがけを毎回するなんてとても無理な話です。
鎌倉に建てたオパの家
建て替えの為に壊してしまった母屋はボロボロ ガタガタになってしまいましたが、庶民が輸入品など高価で買えない時代に、日本で手に入る建材を駆使してなんとかドイツ風にしようとした工夫が色々ありました。
例えば、居間にレンガをアーチ型に積み上げて上に大理石を置いたマントルピースを創りました。残念ながら薪をくべるマントルピースは断念して、中にガスストーブを入れて使っていました。これは、建築後数年過ぎてから思いついて造ったらしく、当時マントルピースなど造った事のない職人さんに「ああでもないこうでもない」とうるさく指示し、「いったい何が出来るのだろうか?」と不思議に思って見ていたことが主人の幼い記憶に残っているそうです。
居間の天井はブルースホームのオールドプロバンスの家でよく見られるのととても似ていました。焦げ茶色の装飾梁が何本か入っていて、他の部分は漆喰でぬられていました。
玄関のタイルは黒と薄いレンガ色の市松模様でした。
この家で育った主人はブルースホームの家に入った時に郷愁を感じ、他のハウスメーカーにはない何かを肌で感じたようです。インターネットで居ながらにして世界中の建材を買う事ができる現代にオパが生きていて、グッディーさんと知り合ったならいったいどんな家を建てるのでしょうか?ちょっと、気になります。
グッディーさんならとても面白がって、一生懸命力になって下さることでしょう!
05|第5話「我が家の守り神達」
鎌倉でのオパ
オパは1900年に新潟県佐渡で生まれ、1992年に92歳で鎌倉で亡くなりました。
人生のちょうど半分を鎌倉で過ごした事になります。
この家で、私の知っているオパはドイツ語の本を読んでいたり翻訳を頼まれて、アンティークにしか見えないタイプライターを使って仕事をしていました。
お天気のいい日は、ユニークなサングラスをかけてガーデーナーの衣裳に身を包み庭仕事に精を出していました。何ごとを始めるのもまず格好を決めてから入っていた様です。そして、いつも帽子でお洒落してステッキを片手に決まった時間に散歩に出かけていました。
まさに 晴耕雨読の穏やかな生活を過ごしていました。
ドイツでの生活がメラメラと情熱の限りを尽くした炎の日々だとしたら、鎌倉での生活は残り火がゆっくり暖かさを保っているような全ての欲を捨て去った質素ながら規律正しい静かな日々でした。
孫娘のような年の私が好奇心一杯で聞いているのが面白いのか、血のつながりの無い気安さからか、ドイツでの面白いエピソードをお茶を飲みながら良く話してくれました。後で分かったのですが、私にしか話していない事もありました。
ドイツの事を話す時のオパの顔は生き生きと輝いていました。話し疲れると決まって「ジャジャンジャン!続きは後のお楽しみ!老兵は黙って立ち去るのみ」と言って部屋に戻ったものです。
孫の顔が見たいなどと 私に一言も言わなかったのに、電話で無事男の子が生まれた事を知らせた時、嬉しくて有難うと何度も言う声が最後は泣き声になっていたそうです。
名前にオパの一字を貰ったその長男は、今イギリスに駐在しています。オパが最初に渡ったロンドンで仕事に励んでいます。彼が選んだお相手はまるでオパを女性にしたような娘で(日本人です)キャリアを捨てて赴任先について行ってくれたかと思うとロンドン大学の大学院に合格し勉強に励んでいるそうです。
今年社会人になった次男はオパに似た芯の強さと根性で自分の道を歩んでいます。思い込んだら突き進む気性はオパに一番似ています。
私がオパの事を、このブログで一杯書きました。それを読んで主人が「親父の事を、こんな風に書いてくれてありがとう」と、目を潤ませて言ってくれました。その横顔が最近オパにとても似てきました。
余生のはずのオパの第三の人生がこの様に脈々と続いていて、同じ場所を私達が終の住処にしようと改築した事をきっと喜んでくれていると思います。そして、この新居が、子供達が疲れた時やってきて心から安らげるオアシスになってくれたらこんな嬉しい事はありません。
いにしえからの守り神
ブルースホームはしっかりした信用のおける会社なので、地盤調査が必須条件として組み込まれています。
「建て替えの場合は前の家の重みがかかっているので、おそらく地盤改良は必要ないでしょう」
と、言って頂いていました。
楽観的な私達は、予算に組み込まれている地盤改良費が浮いた時のお金の使い道をあれこれ考えてさえいました。
圧力をかけて何回転で地中を進むかで、土地の堅さを把握する、スウェーデン式地盤調査法を用いての調査が早速行われました。
地鎮祭から数日後、速報がメールで送られてきました。結果は、軟弱地盤で改良の必要ありでした。
Oh my God!
例えば、人数より一つ足りないケーキをじゃんけんして負けて自分だけ食べられなかった時の様な、くじ運の悪さを感じました。鋼管杭を40本も打ち込む大工事になるとの事で、その後見積がきて、ケーキを食べ損ねたどころではなくなりました。予算どりの約倍の金額でした。
「今乗っている車を乗りつぶすまで乗って買い換えを我慢しましょう」と、言い聞かせてやっと気持ちが落ち着きました。
しかし、神が与えた試練はそれだけではなかったのです。
地鎮祭に感じた風は、オパと共に名も知らぬいにしえの武士達も混じっていた事を、その後知る事になります。
06|第6話「お宝がでたぞ〜」
改築の落とし穴
どちらにお住まいですか。
「鎌倉です。」
「わ~!いい所ですね」
決まり文句の様に言われます。
実際に、歴史があるのに海にも近く 自然も残っています。その上、垢抜けたイメージがあり、ご近所さんも素敵な方ばかりです。嫌な事といえば、休日やベストシーズンは車で出かけられないほど混雑する事でしょうか。
しかし、この憧れの鎌倉で改築するのは容易な事ではなく、ポッカリと落し穴が大きな口を開けていたのです。
軟弱地盤と判明し、地盤改良で鋼管杭を8~10mの深さまで40本打ち込むプランが出ました。
改良工事はこんなイメージです。これでは遺跡はグチャグチャになってしまいますね。
ここで問題になったのは文化財保護法の存在です。歴史的埋蔵物が埋まっている可能性の有る地域(周知の埋蔵文化財包蔵地)では、地中60㎝以上掘り起こす工事をする場合は、鎌倉市教育委員会生涯学習部文化財課に申請し許可を得なくてはなりません。
そうです。
地盤改良をしなくてすむのなら、何ら問題はなかったのです。
地鎮祭のあとの地盤調査で軟弱地盤とわかってからの改良方法のプランニングと見積で12月はあっという間に過ぎ、ここからは、施主の出番との事で年明け早々に何とかスムーズに許可を得ようと私は気合いを入れて、文化財保存課の窓口に立ちました。
父が建てるまでは畑だった事を強調しましたが、お役所の決まり文句を並べられて2月1日に試掘をする事になりました。
試掘の結果で発掘調査が必要か否かが分かります。
試掘の日
ピリピリと肌を刺す様な冷たい日でした。9時半から始まる試掘の立会いの為、早朝に川越を出発しました。ランダムに場所を決め、2×3mの面積を手掘りするそうです。
市役所の職員と教育委員会から一人チェックに来ている他は、何と高齢者事業団から派遣された方達がスコップやツルハシを持って集まっていました。凍て付く様な季節の朝、吐く息が真っ白になり地表も凍りついてカチンカチンになっていて、とても辛そうで見てはいられません。
私は用があり、その場を立ち去りましたが主人はずっと立ち合っていました。
お昼頃でしょうか、私の携帯電話がなりました。
「お宝が、でた~」
と主人は絶句しています。
「じょ 冗談でしょ」
現場に行ってみると、信じられない光景が。
40センチほど掘った処で素焼きの食器がビニール袋に三袋もでてきて、中世の家の礎石もバッチリ見えます。
「鎌倉時代の後の戦国時代の武士の家の跡です。この黒くなっている地層は台所で煮たきをした炭の跡です。Sさんのところは、比較的浅い場所からでてきて時代時代の層も凄くハッキリでています。鎌倉時代にも、建物があった可能性があります。」
と教育委員会から派遣された方が説明して下いました。
「お百姓さんではなくて ぶっ武士ですか?」
「はい、この辺だと上杉家ゆかりの武士(謙信の祖先)だと思います。礎石に鎌倉石が使われているので、多分その家来の家でしょう」
なんとなんと、中世の武士達がこの場所で、酒盛りして煮たきをし暮らしていたんだ。一体どんな風景だったんでしょう!
現実を忘れ、一瞬いにしえにロマンを感じてボーとしてしまいました。
素焼きの器は戦いに行く前に勝利を祈って飲む使い捨ての杯で比較的沢山出土されているという事です。
しかしそんな悠長なことを言っていられない現実に直面することになるのです。
1週間後、正式に発掘調査が必要との連絡がありました。市の予算で発掘調査をする場合は、9ヶ月のウェイティングの後、調査期間は約3ヶ月かかるらしいのです。
なんと、更地にしてから1年以上も、着工出来ないのです~
07|発掘調査
調査の内容
発掘調査が必要と電話で伝えてきた役所の女性職員の説明は淡々と続きます。
「市が発掘調査する場合は、9ヶ月のウェイティングの後調査期間は約3ヶ月です。市が負担するのは調査費用のみで、養生60センチの深さまでの掘削 埋め戻し、電気、水道代は施主様の負担になります。早く着工なさりたいのなら自己負担で民間の調査会社に依頼なさる方法もあります。」
と言われて、絶句!
「調査など、なにも望んでいない私たちが何故そこまで犠牲を強いられるのか」と反論し、「他の方は大人しく受け入れられるのですか?」と尋ねたところ、「いいえ、殆どの方が怒ってしまわれますね。大変です。」
との返事。彼女は、伝達する事が仕事の一環なのです。何を言っても始まらないと悟りました。
一応民間の調査会社に発掘調査の見積を出してもらったら、またまた、かなりまとまった金額が飛んで行きます。もし重要な遺跡などが出てきたら、幾らかかるかは分からないとの事。結局、9ヶ月待っても市にお願いするしかありません。
因みに出てきた埋蔵物は神奈川県の所有物になります。これでは、[なんでも鑑定団]に出演する事も出来ません。
釈然としません
この地域で地盤改良をしていた家がありました。それなのに発掘調査をしていた記憶はありません。「何も出なかったんだ!」試掘の結果を役所に聞いてみました。調べてくれたところ届けをせずに地盤改良した事が分かりました。
届けなければどうなるのでしょうか?その回答です。
①建築後なら何のお咎めもなし
②地盤改良が終わった後なら、責任者を役所に呼んで書面での注意。其の後工事を続行できます。資格剥奪とかの権限はこの条例にはありません
③掘り返している時に発覚した場合は、工事は即ストップになり試掘から始める。
鎌倉の方は、発掘調査の事をご存知なので申請しないで地盤改良などしていると通報して下さる事もよくあります。
なんか、釈然としません
大勢の周りの人達が色々アドバイスしてくれました。鎌倉に住む人達は多かれ少なかれ発掘調査を気にかけています。この条例について知らない人も話を聞くと、怒りだしてくれました。
中には、市長に談判してあげると電話をしようとしてくれた人もいました。皆さん、私たちの事を心配して下さいました。
清潔さ正直さ遵法精神、それは大切な事だと思っていました。しかし、その正直さが今回ばかりは、裏目にでてしまったのではないかと嫌な考えが浮かんだりしました。
グッディーさんが発掘調査に引っかかったのは、初めてだそうです。しかも、この件に関しては全て施主サイドで解決しなくてはならないという取り決めでした。
いつもは、元気な私が2ヶ月ほど、微熱が下がらず心身共に落ち込んで、もんもんとした、くらーい日々を送っていました。
その間、主人は何度か役所に出向き、何とか解決の糸口を見つけられないかと画策していました。彼の意見は常に、首尾一貫していました。一点の曇りもなく新居に晴れ晴れとした気持ちで住みたい、まさにグッディー方式の正攻法です。
しかし当事者になって考えてみて下さい。
今まで、住んでいた家は取り壊されて跡形もありません。半年間の我慢だとおもっていた不自由な仮住まい暮らしが1年半を超えてしまいます。倉庫には、家財道具の殆どを預けています。長引けば長引くほどにかさむ費用は、ばかにならない額です。主人は、藁にも縋る思いで、打開策を探していました。
そして、ある工法を聞いて来たのです。
とうとう、私たちはトンネルから抜け出しました。
08|第8話「新工法」
役所の事情
何度か市役所に行き、話しているうちに役所の方の事情も分かってきました。待機期間の長さは、予算不足からきていました。来年からは予算が増えて、もう少し待ち時間が短かくなるそうです。役所の責任者は、
「遺跡を壊した後では取り返しがつかないので埋蔵物がある限りは調査して、後世に伝えなくてはならない」
との信念でこの仕事をしていると話してくれました。そして、遺跡を壊さないで地盤改良できる工法をいくつか提案してくれました。
発掘調査は、古都に住む者の使命だとは思います。ただ、役所がそのような信念であるならば、ざるから水が漏れるような不公平感は何とかして払拭してもらいたいものです。
行動開始
主人が頑張っているのに、ぐずぐずしてはいられません!ようやく熱も下がり、元気を取り戻し始めた私は出来るだけの事はやろうと提案してくれた地盤改良方法の幾つかを撤退的に調べました。
その結果、可能性のあるのは新工法のジオクロス地盤改良法でした。初めて聞く名前をまずパソコンで調べ、カタログを出来る限り取り寄せてその後疑問点など関係者にメールや電話で問い合わせました。耐震性において仙台での施工例(100軒ほどあるそうです)は震災でも盤石とは言えないが、かなりの好成績をあげているとの事です。
別の新工法のハイスピード工法で施工されたディズニーランドは、この震災で液状化にも耐えました。残念ながら地中を掘らなくてはならないので遺跡を傷つけてしまうため、我が家ではこの工法は採用出来ません。
お陰で今まで何も知らなかった地盤改良法を随分と勉強し技術の進歩に驚きました。
とにかくどの工法でも、すべての未曾有の災害に対処できる訳ではありません。鋼管杭はジオクロスより堅牢な面もありますが、突き上げには弱いらしいです。
私がマークしたこのジオクロス工法は、何よりもブルースホームが絶対条件とする瑕疵保険を付ける事ができます。
この工法を簡単に説明しますと、ゴアテックス(特殊な布)を縦横に張り巡らし、周りをシッカリとめたハンモック状態の上に基礎を作り家を建てる工法です。飛行場の滑走路やヨーロッパの鉄道などの地盤改良にも使われているそうで、万が一地盤沈下した場合も不同沈下はしない(家が傾かない) との事です。これなら遺跡を壊さずに地盤補強できます。
我が家です。 ジオクロスを縦横に敷いた様子です。
時を経てシャコンヌが建つ
ここまで調べた後、グッディーさんにこの工法を採用出来ないか相談しました。
さーて、この後は、二見社長が大活躍です。
風邪をひいて熱がある身体で市役所と掛け合い、双方の納得出来る線を見つけて合意に至らせて下さいました。何と頼もしいハンサム君でしょう。
初めは鋼管杭の改良法以外の選択肢は無いとのご意見の二見社長でしたが、柔軟な姿勢でこの工法を取り入れて抜群の行動力で俊敏に施工を成し遂げて下さいました。
地鎮祭の後、地盤改良や発掘騒ぎ
そして、震災もあり半年過ぎてからの着工(6月9日)になりました。
しかし、この間に沢山の事を学びました。
諦めないで、出来るだけの努力をすれば解決策が見つかる事。
心配してくれる人達がこんなにいて下さった事。
そして、グッディーさんや主人のいう正攻法で望んだお陰で何よりも晴れ晴れと新居に住める気持ち良さ。
予期せぬ副産物もありました。
この工法で基礎が30センチ以上高くなりました。
前に山があり日当たりを気にしていたので大歓迎です。
基礎から周囲70cmはみ出したジオクロス工事の様子が分かります。ジオクロス工法で高くなった分基礎が高くなりました。今は盛り土をして見えません。
どんどん発展しているグッディーさんは、今後鎌倉の発掘調査が必要な土地に施工される事もあるでしょう。私達が経験した事がその時にお役にたてれば、恩返しができるのではないかと思っています。
遺跡をそのまま封じ込めその上に建てた輸入住宅に住むなんて何かロマンがあり、ちょっと面白いです。
何世紀も前に、同じ場所に住みここで料理しお酒を酌み交わしていた先住の方々。
これからもどうぞ私達をお守り下さい。
09|第9話「Oh my God!!」
Oh my God!(なんてことでしょう!)
今に至るまで、この建替えで
Oh my God!
と何度叫んだでしょう!
地盤調査の結果を聞いた時!
Oh my God!
埋蔵物が見つかった時!
Oh my God!
その他にも家の事を真剣に考え始めてから色々な事がありました。
叫んだ沢山のOh my God!を順を追ってお話しします。
リフォーム
最初は母屋のリフォームだけを簡単に考えていました。
そこで、リフォーム専門の小さな工務店に相談したところ「雨漏りもしているし白蟻にもやられているので大掛かりなものになりますよ」と言われ、Oh my God!
そんな簡単な事では無いんだと認識。
それなら思い切って徹底的にリフォームしようと
①まるで新築のようになるとのうたい文句の~の新築そっくりさん
②女性の一級建築士が担当するのが売りの~のリフォーム
の大手の2社に調査してもらい、プランをいただき、見積を出してもらってOh my God!
素敵な家を新築できる金額です~
モダンで高品質なモデルハウスを見て一目惚れした~地所ホーム
話してみるとリフォーム部門もあり担当者がやって来ました。
やってきた人を見て、Oh my God!
スポーツクラブで一緒の知り合いでした。~地所ホームから仲介で仕事をもらうとか、なら直接頼むのにー。
そんなこんなで、リフォームのプランニングで約1年かかりました。
見積りが出るまで何度も打ち合わせして、家中見せてかなりのエネルギーを使います。その割にどこに頼んでもお金がかかる割にピンとくるような良い案は出てきません。無駄な空間や部屋が沢山出来てしまいとても住みにくそうです。
建替えちゃえ
ようやく建替えという文字が浮かんで来ました。
住宅展示場にモデルハウスを構えている大手に頼んでも、結局知り合いの工務店がやってきたという、リフォームの時の経験があり、規模は小さくても、思いが通じ地域に密着していて直接施工して貰える良質な工務店をどうすれば探せるのかと思案していた時、リクルート社が出している「神奈川の注文住宅」とまさにうってつけのタイトルの本を見つけて購入しました。
本を読んで、ハウジングナビという
施主が工務店を探す為のサービスがある事を知り早速予約しました。
ハウジングナビのシステムはリクルート社が契約している会社の中から3社を施主である我々が資料など見て選び出し、その3社がコンペをし、自分にあった会社を探すという合理的なものです。早速、自分達に合いそうな3社を選びました。
その中で、飛び抜けて素敵なプランを出してきてくれた会社がありました。誠実な設計士さんが作ってくれたプランはモダンでハイセンスな家でした。特に気持ちを込めて、真剣に取り組んで頂いている事が分かりこちらも、ずいぶん気合いが入っていました。一生懸命な営業マンも好感が持てました。
そこに決め、何ヶ月もかけて、プランが完成し、ようやく契約しようと思った時にいきなり倒産してしまいました。
Oh my God!
ふりだしに戻ってしまいました。
でも、不幸中の幸いでした。契約前で本当に良かった!
気合いが入っていただけにかなりショックを受けました。
気を取り直して又一から工務店を探さなくてはなりません。
何ヶ月も、モダンな住宅のプランを考えていたので、新たに購入した本の中の一冊「憧れの輸入住宅を建てる」を読むと輸入住宅がとても新鮮に映りました。
輸入住宅など、とても高価で手が出ないと思っていたのですが、コストパフォーマンスの良い会社も幾つかありそうです。
そうです!ブルースホームが先づ目にとまりました。
早速、資料を請求したら、一番近くのフランチャイズ店のグッディーさんから電話がかかってきました。
菊江さんとの運命的な出会いはこの時だったのです!
雑誌に何度も掲載された鎌倉N様のオープンハウスに連れて行って下さいました。この時は主人に用があり、私一人でした。
今まで見てきた家と全く違うコンセプトです。N様の想いが至る所につめこまれています。グッディーさんのきめ細かな施工でそれが可能になっている事も直ぐに分かりました。
すてき~
すっかり、魅了されてしまいました。
で、その週末、主人のお尻を叩いて、千葉北、柏のパソコンで調べた本社のモデルハウスまで遠出しました。鎌倉からロングドライブでようやく千葉北のモデルハウスに着きました。側まで来ると直ぐに分かります。素敵な家が三軒並んで建っている様子はオーラがあります。
オールドプロバンス、シャコンヌ、白亜文明館の3シリーズです。
どんな内装かな?主人のリアクションはどうだろう?ドキドキ
そして、駐車場の場所を聞く為に声をかけ、出てきた事務服の女性を目にして、Oh my God!
大声で叫び、いきなりその女性とハグをしている私を車の中から見て、その時主人はとうとう妻の頭はやられてしまったと思ったそうです。
10|第10話「南アフリカ」
ビックリした?
私は、駐車場に出てきた女性との久々のあまりにも偶然の出会いに興奮して我を忘れてしまいました。
ちょうどその時、菊江さんとモデルハウスにいた営業の方が電話をしていて
窓から私達が見えたらしく「今、到着したグッディーさんのお客さんらしき人とうちの職員がどういう事でしょうか??抱きついています。」と実況中継してくれていたそうです。
H夫人
昔々、若かりし頃、私達家族は南アフリカのヨハネスブルクに4年あまり海外駐在員とその家族として住んでいました。3歳になる長男を連れて出国し、次男は南アフリカで生まれました。(写真:長男と、生後1ヶ月の次男を抱いて。)
私がハグをしていたのは同じ会社の駐在員の奥様で新婚さんで来られ、やはり2人のお子さんを当地で出産されたH夫人だったのです。
そう言えば千葉在住でした。何という偶然でしょうか!
近くのこのモデルハウスでお仕事されていたのです。
南アフリカ
あの悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)が施行中のヨハネスブルクの白人の居住区は、あの頃は平和でした。日本人は名誉白人と言う不安定な立場ながら、白人として扱われていました。
ヨハネスブルクの白人居住区は日本では考えられない素晴らしい住環境でした。
家々の庭にはプールやテニスコートなどが併設されていて、まだ幼かった子供達の事故が心配でプールのない家を探すのが大変なくらいでした。
幸いなことに、現地の方で子育中の同年代方の素敵な家を転勤になられた為、借りることができました。オーナーはもう少し子供達が大きくなって、帰ってきたらプールとテニスコートを作るつもりだと言っていました。
そのときは、その広い広~い庭の真ん中に、子供の(遊び小屋)が建っていて、ブランコが大きなミモザの木からぶら下がっていました。バーベキューの為の広いテラスもありました。
長男はボクサー犬のジュディーと何時も庭を走り回っていました。自分より大きなジュディーをライオンに見立ててライオン狩りをしていました。
気候といえば、穏やかな四季はあるものの、一年中夏の軽井沢の様な爽やかな高原の気候でした(標高1800m)南ア原産の花の数の多さからもわかりますが、家々の庭には色とりどりの花が一年中咲いていました。我が家の庭は、週2回来てくれるガーデンボーイのエンウィがいつも綺麗に手入れしてくれていました。
秋には、ジャカランダ並木で街が紫色にけむります。あの美しい街並みが今も存在している事を願うばかりです。
そういえば、年に数日ある比較的寒い8月に(南半球です)、来客があり居間の暖炉を使ってみようと薪を買ってきて火をつけたら、いつの間にか煙突に巣を作っていたのでしょう、ブルーの綺麗な小鳥がびっくりして家の中に突進してきて飛び回っていたのは懐かしい思い出の一つです。
クリスマスやイースターのお休みには、ケープタウンなど色々な珍しい場所に旅行しました。
ケープタウンはテーブルマウンテンを背景にした綺麗な街です。
喜望峰を見た時は(こんなところまで良く来たものだ)と感慨ひとしおでした。茅葺屋根のワイナリーの優雅な佇まいも忘れられません。
丸顔で小柄で優しい気性のメイドのクリスティーナが住み込んでくれていて、子育の大変な時期を本当に良く助けてくれました。お陰で、子育ての苦労が半減しました。
色々な問題を抱えた国ではありますが、エンウィやクリスティーナと共に平和な日々を送った事は、本当に貴重な経験だったと思います。
とは言うものの、日本から遠く離れ、しかも不安定な政情の異国で、若かった私達は同胞として、幼い子供を持つ母親として、何かと助け合って過ごしていました。
そんな懐かしい方との思いがけない再会だったのです。
モデルハウス
話し込んでいる私達を残して、一人でハウスツアーをして来た主人の顔が少し赤らんでいます。
私はようやく本来の目的を思い出しました。
そうだ、彼女に会うまではモデルハウスに心を馳せて、主人がどんなリアクションをするのかドキドキしていたんだ!すっかり忘れていました。
「いいね!今までみた家と全然違うね!」
ブルースに決まったと確信した瞬間でした。
11|第11話「ブルースホーム」
ブルースの家
思いがけない再会劇で、話が脱線してしまいました。
千葉北柏のモデルハウスに話を戻します。
第一印象は、家に入ったとたん穏やかな気持ちになり、なぜだか新しい家なのに懐かしさを覚えました。肌で感じる感触が柔らかいからでしょうか!
計算された統一感が心地いい空間です。他の住宅展示場のモデルハウスのような良く見せる為の気負いや、威圧感ゆえの居心地の悪さは感じられません。
内装は無垢や自然素材を使い 普遍的な継承されたセオリーに則っているので、逆に時を経ても古さを感じる事はなさそうです。見せかけだけこの様な家は良くあります。しかしブルースには模倣ではない本物の感触がありました。
部屋にいるとモーッアルトの旋律、或いはシャンソンが心に浮かんで来ました。(ブルースではなくて….. )???
ところでシャコンヌも音楽用語なんですね。
思い出しました。南アで借りた家に初めて入った時に感じた感覚です。
今までモヤモヤしていた自分の求めている家のイメージが、この時ビッビッと浮かび上がってきました。受け継がれた古い建物の良さはそのままに、設備を最新の物にリニューアルした空間。ヨーロッパの店舗やレストランでよく見かけます。こんなテーマの家は居心地の良さは正に理想なのではないだろうかと。
ブルースでなら実現できるかもしれない!
日本人として日本家屋にそれを求めるべきかもしれません。古民家の気密性を良くして最新の設備を入れれば素敵ですよね!しかし、かなり経済的余裕が必要でしょうね
つぶらな方
主人も私と同じ感覚を持って、ブルースホームに強い感心を示してくれました。第一関門通過です。そこで、先日N様のオープンハウスで会った菊江さんのことを話しました。
「営業担当は女性だったよ」
「女性とは珍しいね。どんな人?」
「つぶらな人」
「え?意味が良く分からないけど」
「会えば、分かる」
すらっとした長身で、キメの細かいお肌につぶらな目と鼻と口がちょこんとのっている可愛らしいお顔の菊江さんとはこの時以来、随分長いお付き合いになってしまいました。
お会いした頃は、設計士さんを含めて清水さんが3人いらっしゃったので、ファーストネームで菊江さんとずっと呼ばせてもらっています。
彼女は、家の営業だけでなく、土地探しもなさっています。大きなお金の動く仕事です。駆け引きがあったり、嫌な事に色々遭遇する事もあると思います。それなのに、彼女はいつも純粋で信じ難いほど正直でつぶらな瞳はいつも澄んでいます。ほんの少しドジな部分は愛嬌があり人間味を感じます。
彼女だけでなくグッディーの皆さんに共通して言える事ですが、仕事に手を抜かない真摯な姿勢は驚嘆に値します。どんなに面倒なことでも良い家にする為には厭いません。施主第一の姿勢が常に感じられます。
私が発掘騒ぎで落ち込んでいる時に元気付けて下さろうと、菊江さんは、いつもは地味なパンツなのに華やかなミニスカートで現れました。大発見です~スタイルの良い彼女は長くて細くて真っ直ぐな脚をしています。この武器を活用する事に気付いたら多分、違う人生になっていた事でしょう!イイエ今の彼女は天職を得て輝いています。
今のままでいてくれてありがとう!
初めて会ったオープンハウスのN様宅での、彼女のセールストークの第一声は「弊社では、水切り板金の色も何色かの中から選んでいただけます。雨樋もお好みで横と縦の色を変える事もできます」
後で、水切り板金はこの中から選びました。
「何と、随分細かいところから入ってきたな。今まで接してきた男性のセールスマンとは感覚が何か違うぞ」とビックリしながらも、ここなら私が変わった事や細かい事を提案しても、鼻で笑われる事はなさそうだと直感しました。一緒に家という作品を造っていけそうだとワクワクしてきました。
ここから、グッディーの皆さんとの家造りが始まったのです。
12|第12話「グッディーな女性達」
社長です
と紹介された時に、
「えっ❓社長さんですか?❓」
と、聞きかえしたくなるほど、工務店の社長のイメージとかけはなれた二見社長を頂点に、クラフトマンを除き全て女性のスタッフです。
(二見社長は今人気の物真似歌手の青木隆治に似ていませんか?……)
今迄男性中心の仕事とされていた家造りを女性が全て取り仕切っています。
男性達が従来の組織人間、会社人間の枠にどっぷりつかり
坂東眞理子著「女性の品格」より抜粋
お金や権力の魔力から抜け出せないなかで
女性も男性の轍を踏んで同じように権力志向、拝金志向になってはならない
私は女性が社会に進出し活躍する事が必要だと信じていますが
それは従来の男性と異なる価値観、人間を大切にするよき女らしさを
社会や職場に持ち込んでほしいと思うからです。
と、書かれています。
これを読んだ時、グッディーホームズはまさに女性の社会進出のビジネスモデルだと思いました。いち早くこのシステムを作り上げられた二見社長の炯眼はさすがとしか言いようがありません。
このスタッフの方達との家造りは、途中で地盤改良や発掘騒ぎなどで中断した事を除けば、想像した以上にクリエイティブで楽しい作業でした。
今となっては、早く完成してほしいと切望していながら、一方では終わってしまうのが残念で寂しくてなりません!
一世一代の家造り、誰もが夢を一杯持っています。
しかし、プランニングを始めると建築法、土地の形状そして特に経済面etc。様々な制約でがんじがらめになって行き、妥協しなくてはならなかったり、諦めなくてはならなかったり厳しい現実に突き当たります。この現実に遭遇した時出来る限り夢を壊さない様にと、グッディーレディー達は真面目に手厚く頑張って下さいました。
本当に親身に自分の家の様に、(主人以上です。)徹底的に相談に乗って下さるので、いつのまにか長電話になってしまい、メールの送受信欄はグッディーホームズで溢れてしまいます。
細かい細かい作業の積み重ねは女性ならではです。
このような努力の結果でしょう。最近はグッディーさんの建築件数がどんどん増えているようです。初心を忘れる事無く、この姿勢をいつまでも貫いて頂きたいと思います。
大作戦
グッディーさんの事務所で、初めてシャコンヌシリーズに付く廻り縁を見た時、胸を鷲掴みされた様な気持ちになりました。「えっ~ こんな家を現実化出来るの❤️」
建築途中の我が家の廻り縁です。
私達はこれから先次第に家にいる時間が長くなっていくでしょう。快適に過ごす為の理想は、ホテルのスウィートルームの様な家です。それで密かに家のテーマを(アールヌーボーの時代の家を五つ星のプチホテルにリニューアルした様な家大作戦)と自分で名付けました。
しかし、余りにも恥ずかしいのでこの想いを誰にも言えないでいたのですが、相談している内に胸に秘めたこのテーマを打ち明けても大丈夫な雰囲気を感じました。
思い切って言ってみました。
「いいです~ね✌️」
社長さんやスタッフが答えてくれました。
さすがグッディーさんです。
時間がかかりましたが(後から着工した家が沢山完成しました。)完成までもう一息です。
次第に、我が家が全貌を現してまいりました。
13|第13話「感謝を込めて引っ越します」
引っ越し
本日、新居に引っ越します。
1年1ヶ月の仮住まい生活にさよならです。
お正月は新居で迎えられます?
ロンドンにいる長男夫妻も家を見に一時帰国しました。
これからこの新居でどんなドラマがあるのでしょう?
理想の家を手に入れても、それに息を吹き込むのは、住み手である私達です。
家に負けない、素敵な生活をここで過ごせますように?
感謝を込めて
完成までには実に沢山の方々のお世話になりました。
①グッディーホームズ
遠方に仮住まいしていた為汗をかき仕事をして下さったクラフトマンの方達に、お会いする機会は数回しかありませんでした。丁寧に、丁寧にフィニシヤー工事をして下さった二見忠夫様、他の大勢のクラフトマンの方々ありがとうございました。
現場監督のヘルメットが似合う近藤さんは、インテリジェンスのある正直で心優しい家族思いのお母様でした。進捗ブログをチェックするのが楽しみでした。
そして、是非書いておきたいのはお辞めになられた園田さんです。お仕事ぶりは几帳面で間違いなかったので心から信頼していました。「光と影の魔術師 になりたい」と、訳の分からない事を言う私に丁寧に真剣に向きあって、照明計画を立てて下さいました。
タイルやメダリオンの選択に悩んだ時、相談にのって下さって、それがとても楽しかったです。当時のメールのやり取りを懐かしく読み返しています。そして今、現実の姿となって現れました。是非見に来て下さいね。
このブログの掲載でお世話になった田中亜美さん、陰で支えて下さったグッディーホームズの他のスタッフの皆様、お一人お一人の事は書けませんでしたが本当にありがとうございました。
②副監督(ボランティア)
我が家のお隣にお住まいのKさんの事を副監督と呼んでいました。理由は、ホームページの現場進捗ブログより早く、何か変化があると写真を送って下さったからです。
隣が工事していると煩わしくて嫌なものだと思います。それなのに、『戻って来るのを待ってるよ』と言って下さった言葉は嬉しく心にしみました。
③オープンハウス
そして、快く家のなかを見せて下さった皆様、ありがとうございました。
隅々まで隙のないこだわりのお宅で、グッディーさんとのきっかけを作って下さった鎌倉N様
猫ちゃんも寛いでいます。(ブログに何度も登場して頂きました)
明るくて、大らかで楽しい逗子A様は、上質なカントリーのテイストで素敵にコーディネートされていました。もう2年前になります。寒い日に伺いました。受賞されたのは当然の事と思います。
お茶目な鵠沼のT様ご夫妻は、突然伺ったのに直ぐに打ち解けて下さいました。風格ある佇まいは周りの家を凌駕していました。お隣さんがグッディーさんで施工されるのも頷けます。完成が、楽しみですね!
優しい若いママと可愛い坊やがいらしゃった片瀬山のY様は、グレード感がありながら暖かさを感じる北欧テイストの明るいお宅でした。こんな環境で大きくなられるお子さんはお幸せだな~と思いました。
藤沢H様は、家中にご主人様のこだわりが凝縮していました。本当に楽しそうに家造りの喜びを伝えて頂きました。ごめんなさい、大変な努力で見つけられた外灯をチャッカリ真似しました?
各家各様、オーナーの方の個性に溢れ、皆さんご自分の家にプライドを持って日々の暮らしを楽しんでいらっしゃいます。我が家もその中の一軒になれればいいな~
最後に、家造りが好きで好きで好きで仕方のない方々の一員として、参加させていただきその作品に住める幸せを一言で言い表わします。
「このプチホテルの、スウィートルームに私達ロングステイします。」
14|第14話「エピローグ」
インテリア
引き渡しは昨年の暮れのとても寒~い寒~い日。その3日後、大きなトラックが横付けされ、真新しい家に運びこまれたダンボールの山、一つずつ箱を空け懐かしい思い出の品と一年数カ月ぶりのご対面です。これから大仕事が始まります。
さあ、この真新しいキャンバスを腕によりをかけて自分色に染めましょう!
①カーテン
カーテンはインテリアの重要なアイテムです。サンプルを持ち帰り慎重に選びました。カフェカーテンは気に入ったのがなく、手づくりしました。
②絵
父から譲りうけた絵、思い出の絵、すべて定位置が決まりました。
③小物
いろいろな国で買い集めた小物類、箱から出して貰って嬉しそうです。
Open party
3月の後半の週末を2回に分け、親しい方をお招きしオープンパーティーをしました。
さあ、ご到着です。車の音が聞こえます。
いらっしゃいませようこそ、どうぞ。
まず、二階にお上がり下さい。
ダイニングにケーキを用意しています。
アーモンドケーキ、パウンドケーキ、チーズケーキ、どうぞお召し上がりください。
ご近所の元川奈ホテルのパティシェさんが作って下さいました。
ケーキと飲み物をとられたら、どうぞリビングでお寛ぎください。
それとも、サロンに腰掛けられますか?
今日はありがとうございました。気をつけてお帰りください。又、お待ちしています。
今日は沢山の方に会えて楽しかった、おやすみなさ~い。
2日間で実に50人近い方達に新居を披露した事になります。
住み手の想いが詰まった家、居心地が良い家、又来たい、など各々の方々に心温まる感想を頂きました。この時を夢見て頑張ってきたので、本当に幸せな時をウキウキと過ごしました。
その中でも心に残った感想を2つ。
車大好きな主人の友人からは「家のことは疎いので敢えて車に例えると、標準仕様からengineのbore up、大径tire+wheel・shock absorber + spring・内装・座席・エアロパーツ一式全てを変更・独自追加し、更に特殊塗装を施してcustomizeされたすばらしい出来栄えの御宅だと思います。」
つまり大好きな型式のすべてのパーツを、自分仕様にカスタマイズしたこの世で唯一の車に我が家をたとえてくださいました。
欧州、アメリカに駐在経験があり、世界中を駆け巡った方の感想
「新居は日本にいるとは思えない感覚ですが、なにか、懐かしい感じもするなと思っていました。スパニッシュアメリカンという感じでしょう。アメリカのアリゾナ州フェニックスあるいはツーソン郊外のリゾート、高級サブデビジョンの雰囲気ということを感じました。小物は、何度も訪れたこれもヨーロッパの影響が強い。南アの高級住宅を思い出しました。」
目指していたのは、新しいけど懐かしさを感じる家。細部までこだわるけど、全て自分の中で消化された借り物ではない家。そして、形式にとらわれ過ぎず堅苦しくならない暖かく居心地の良い家。
表現はそれぞれ違うけど家への私の思いは伝わっていそうです。
ありがとうございます。
他の方も皆さん最後に、又お邪魔したい!と付け加えて下さっています。
いつでもお待ちしています。
I welcome you, all at anytime !!
早春に植えた草花も根をおろし始め、以前からあった紅スモモの大木は満開の花をつけてくれました。
何度も何度も春を重ねてこっくりとした、いい味わいの家に育てていくつもりです。